白百合の人生漂流記

徒然に百合や法律学(法解釈学)の勉強、個人的な興味関心事項について備忘録的に語ります。

百合の魅力について

皆様、ごきげんよう

 

眠れないこともあって、私にとって非常に大切なカテゴリーである百合というカテゴリーについてお話ししたいなと思います。今回は百合の私の中における定義についてお話しした後に、そこから見える魅力についてお話ししたいです。

 

そもそも、百合というのはどういうものであるのでしょうか。おそらく、百合を好まれる方に尋ねれば、各々が異なった定義を述べると思いますが、私の見解を述べさせて頂きますと、百合とは「女の子同士の感情の衝突によって織り成される関係性である。」と定義しています。では、以下でそれぞれ詳細に見ていきたいと思います。

 

1.女の子性について

百合の大前提として、他のジャンルすなわち、異性間恋愛やBLといったものと区別する形式的な要素として、女の子同士という要素が付与されるのは概ね異論がないと思われます。

ここからは、議論の余地があると思うのですが、女の子という点に固有性があり、それが本質であると主張しうると思います。

ポリティカル・コレクトネスを無視していえば、主体が女性であることそれ自体に百合の本質が見出しうるのか。という問題ですね。私としては、ありうるとは思いますが、関係性の部分に吸収しうる議論なのではないかなと思っております。

というのも、主体が女性であるということに百合の本質を見出すとすると、それは、女性対男性にも同様の本質が存在することになってしまい、百合というカテゴリーの意義が低下すると思われるからです。(明確に言語化はできないのですが、百合というものに固有の"エモさ"が存在すると思っています。)

本質は、主体が女性であるということではなく、女性「間」であるというところなのではないかなと私は思います。

 

2.感情の衝突について

私は、特にこの部分を重要視しています。これは関係性の基礎を構築するもので、私が主に百合作品を楽しむ際に、この部分を追う面があるからです。

ただ、一つ勘違いされることがあるのですが、この感情というのは、女性同士の間で関係を持つということに対して抵抗を持つ、葛藤する、といったヘテロ的な恋愛観に基づいて発生する感情には限られません。もちろん、そのような感情というのは、私たちを惹き寄せる感情になりうるとは思いますが、これだけが百合で鑑賞に値する感情というわけではありません。

例えば、私が大好きな作品であるtMnR先生の『たとえ届かぬ糸だとしても』では、女子高校生である主人公がいわゆる人妻に対して恋をするという設定になっております。ここで描かれる感情は、成就するはずもない恋に対する諦念でしたり、自己暗示でしたりするんですけども、明らかに、先ほどあげたようなヘテロ的な恋愛観に基づく感情ではないとは理解していただけると思います。

このように書けば、この感情の衝突の部分に女の子の固有性はないのではないか。と思われるかもしれません。が、私は固有性という形で表出していないだけで、間違いなく女の子であることは関与はしていると思います。

この部分に関しては『アニメ版魔法少女まどか☆マギカ』のキュウべえが非常に的を得た発言をしていると思います。

正確な発言は覚えておりませんが、キュウべえはまどかに対して、「思春期の女の子の感情が最もエネルギー効率がいいんだ。」という趣旨の話をしていると思います。

おそらく、ここは思春期の危うい感情、特に女の子の感情が強い感情の揺れを伴うんだ。ということを言っているのでしょう。ここでいう感情の根幹を成しているのは、思春期の危うさであると私は思っています。しかし、それならば、キュウべえは「思春期の子の感情が最もエネルギー効率がいいんだ。」と述べれば足りるはずです。そうでないのは、女の子であることに一定程度以上の意義があるからでしょう。

その意義と思春期という要素が化学反応を起こすことで、感情というものが織り成されると考えます。

 

3.関係性について

まず、関係性は多様な形をとりうるということに注意をする必要があります。つまり、何も恋愛という形に限定されないんだということです。例えば、武田綾乃先生の『響け!ユーフォニアム』に登場する黄前久美子高坂麗奈をあげましょう。二人の関係性は、私の貧相な語彙では奇妙な関係と表現する他ないのですが、少なくとも恋愛関係で片付けられるものではないと思います。それでいて、彼女たちの間での感情のうねりが確かな心地よさでもって、(少なくとも私には)受け入られている以上、百合でないとは言えないと思うのです。

そして、関係性は作品の中で微妙に変わり続けます。二人の間の何かしらの事情が、二人の間の感情を作り、そして感情の機微に応じて、二人の間の関係性というものは複雑に揺り動いて行くのです。この感情の変化とパラレルな関係性の変化というものもまた、私たちの心に強く訴えかけてくるものなのです。

 

 

以上が私の考えている百合の定義になります。

百合は複雑な感情の変化から生じる関係性の変化であり、それは得てして、高い透明感を持って立ち現れます。すなわち、何か心に響く風景画を見ているような、そのような気持ちを抱くのです。

さらに言えば、私たちは、自分たちの手の届かないところにあるものについて、得てして憧憬を抱きます。私にとって、百合とはまさに「はるか遠くにある美しい花」であり、仮にその関係性が悲恋であったとしても、球根に毒を持つ彼岸花が美しい(むしろ毒を持つことが、外見上の美しさにさらなる意味づけを与えると思います。)のと同様に憧憬の対象であり、耽美なものなのです。

もちろん、この部分に関しては人それぞれの感じ方があると思います。

ですが、僅かでも私の中における百合の魅力について理解してもらえる部分があると嬉しいですし、皆様にとって百合作品を手にとって自分にとっての百合の魅力を発見する一助になればとても嬉しいです。

 

それでは、皆様、失礼します。