白百合の人生漂流記

徒然に百合や法律学(法解釈学)の勉強、個人的な興味関心事項について備忘録的に語ります。

感傷マゾあるいは精神的リスカについて

 

 皆様、ごきげんよう

 

皆様は、感傷マゾという言葉を聞いたことがありますでしょうか。

感傷マゾがどういうものなのかというのは、以下のリンクの説明文を読んで頂くのが一番わかりやすいと思いますので、リンクを載せます。

booth.pm

ここでは、私にとっての感傷マゾとは何であるか、そしてその概念から発展した精神的リスカとは何かについてお話しした上で、精神的リスカの危うい魅力についてお話ししたいと思います。

 

1.感傷マゾ性の淵源とその意義の拡大

私たちは、メタ認知というものをしながら日々を生きています。しかし、メタ認知は得てして私たちを幸福に導くとは限りません。よほど優れた方でもない限り、メタ認知を突き詰めれば、自己は取るに足らない存在に思われてくるからです。

例えば、個人の価値をその独自性に見出すという価値観のもと、自分の上位互換ははるかに多く存在するのであるから、自己の価値は存在しない。というようなものがあるでしょう。

自身の価値を見いだすことができない中で、自身を慰める方法としては、自身に対する自己嫌悪を感傷を通して行うという方法があります。自己を貶めることで逆説的に自己を肯定しようという心の動きですね。

先日百合のお話をさせていただきましたが、そこで最後に私は、百合は憧憬の対象としての「遥か遠くにある美しいもの(花)」であると表現しました。感傷マゾではそれと近いものを想定しようとするんですね。(少なくとも私の理解では。)すなわち、劣っている自身からは絶対に手の届かないような、遥かな理想を想定するんです。その理想と、自身のギャップから感傷という感情を得ますし、そこから気持ちのいい自己嫌悪につながるというわけです。

感傷マゾではこの構造を特に青春という部分に見出そうとします。しかし、その淵源は上述の通り、異常発達したメタ認知から来る自己肯定感の不足です。この淵源は青春という部分に限られることはないと私は思うのです。例えば、「私はなんて無能なんだ。」という感情は青春とは異なった部分から発生してもおかしくありません。それならば、異常発達したメタ認知から来る自己肯定感の不足を理由に、感傷マゾと同じプロセスでもって(すなわち、感傷を得て自己嫌悪を高め、逆説的に自己を肯定する。)、快楽を得る行為が存在しうるんです。ここに、感傷マゾという概念を拡張する余地が生まれるのだと私は思うのです。それを私(私たち)は、精神的リスカと呼んでいます。(もともと、この概念は私の所属する大学のあるサークル内部でいつの間にか確立された概念であるため、私たちという表現を使っています。)

 

2.精神的リスカと百合の親和性

割と今回のお話からは傍論になりうると思いますが、百合の宣伝にもなりうるので、お話しさせていただきたいと思います。

先の節でも少しだけ、お話させていただきましたが、基本的に百合と精神的リスカというのは親和性が高いと思っております。百合というのは先日お話ししたとおり、私の中での定義は「女の子同士の感情の衝突によって織り成される関係性」です。この感情の衝突あるいは感情のうねりというものに対し、基本的に私たちは、「尊い」という感情を抱きがちです。すなわち、関係性が神聖化=理想化されるんです。これにより、感傷を得るということが可能となるんですね。

ただ、注意が必要となるのは、劣っている自分に対置される以上、理想というのは優秀さが求められるというわけではないということです。どういうことかと申しますと、私の大好きなtMnR先生の『たとえ届かぬ糸だとしても』の主人公の感情のなかで、精神的リスカを構成しうる感情には諦念もあるからです。主人公はいわゆる人妻に恋をするのですが、そこで抱く感情には「相手は既婚者だから私の恋は絶対に成就しない。」という諦念が存在するのです。それでも、私はこの主人公は精神的リスカにおける理想たり得ると思いますし、むしろよりふさわしい存在になると思っています。なぜかと言いますと、理想に求められるのは神聖さや尊さ、儚さであるからです。これらと引き合いに出される私に見出される要素は、能力の低さを包含した卑劣さ、低俗さ、卑しさというものだからです。

したがって、「尊さ」をその性質にもつ百合は、精神的リスカに実に親和的であり、心地の良いものであるのです。

 

3.精神的リスカの危うさ

Iで述べた内容だけでも、精神的リスカから得られる快感というものは不健全なものであるとご理解いただけると思います。ただ、精神的リスカというのはループ構造をとるため、実に中毒性が高いのが特徴だと思っています。そして、それこそが、精神的リスカの危うさであると思っております。

どういうことか。精神的リスカは自己を低俗なものとして貶めることによって、快感を得る行為ですが、精神的リスカを行うことで、自分に新たな属性が付与されます。すなわち、「精神的リスカという不健全な行動を行う低俗な私」という属性です。精神的リスカは行うたびに、私の低俗さが増すので、理想とのギャップが拡大し、精神的リスカによる快感が増加するという構造を持つのです。そして、一度その快感を味わってしまえば、そこに依存してしまうというわけです。

とはいえ、精神的リスカはある面では非常に魅力的な行為であると思います。もちろん、手軽に快感を得ることができるという点も非常に魅力的ですが、それ以上に、自己を一時的とはいえ、肯定することができるようになるのです。真っ当な手段、それこそ、自信を飛び抜けて優秀な存在とすることは、現実的に不可能な場合が多く、そこからは自己肯定感を導くことができない場合がほとんどだと思います。それでも、私たちが生きていくためには自己肯定感は必要不可欠なのです。それを得られるというのは非常に魅力的だと私には思えるのです。

 

結びに、ここまでお読みいただきありがとうございます。本日は、私の思う精神的リスカという不健全な行為をご紹介させていただきました。上述のように、この行為自体は非常に不健全ですので、みなさまにオススメすることはいたしません。それでも、その構造を知るということは、そのことを知らず知らずのうちにしてしまうという事態(私は、小学生の頃からこの行為を知らず知らずのうちからしていたように思うので.....)を避けることができるようになるかもしれません。それだけでも価値がありうるのかなと思います。

また、精神的リスカとは離れて、単純に百合というのは、神聖さを感じる、いわゆる尊いものとして心に響きうるものだと思うので、是非、是非、一度百合作品をお手に取っていただければなと思います。

 

それでは、皆様、失礼します。