白百合の人生漂流記

徒然に百合や法律学(法解釈学)の勉強、個人的な興味関心事項について備忘録的に語ります。

感傷マゾにおける悲劇性

皆様、ごきげんよう

 

先日、「感傷マゾあるいは精神的リスカについて」という記事を書かせて頂きました。

shiroyuri.hatenablog.com

私自身、書いた記事を反芻するうちに、そして皆様のツイートを拝読させていただいているうちに、「感傷マゾあるいは精神的リスカ」の内容が不十分なものだと思われましたので、今回、修正という形で書かせて頂きます。

なお、以下では主に感傷マゾについてお話ししますが、そこでなされる議論は、基本的な構造をともにし、感傷マゾを拡張した概念であるため、精神的リスカにも妥当するものと思われます。

最後までお付き合い頂ければ幸いです。

 

0.問題意識

前回の記事では、感傷マゾあるいは精神的リスカの構造として、低俗な自己を、それから離れた、神聖なもの=理想と対置し、そこのギャップから逆説的に自己肯定を得るというような説明をしたと思われます。

しかし、この説明からだと説明が苦しい事例が存在することに思い至りました。例えば、「概念の夏」という事例がわかりやすいでしょう。ここから、快感を得ることができるというところまでは理解できると思われますが、果たしてこれが自己肯定につながるのかと言われると疑問符を投げかけざるを得ません。

ただ、低俗な自己と神聖なもの=理想との対置(以下、単に対置と書きます。)自体は一般的に起こるとみて問題ないかのように思われます。

したがって、本稿では、対置と快感の間を埋める一連の心的動向について探求したいと思います。

 

1.快感とは何か

そもそも、感傷マゾあるいは精神的リスカによって得られる快感とはどういうものなのでしょうか。

前回、私はそれが自己肯定感であるのだ。という風に考えました。しかし、それに疑問が生じるのは上述の通りです。

感傷マゾあるいは精神的リスカは対置によって落差を感じ取り、そこから快感を得ます。この構造、何かに似ていないでしょうか。

結論から申し上げれば、古代ギリシャ的な悲劇の構造です。そして、悲劇から導かれる快感はカタルシスです。

カタルシスという現象は、(主に悲劇によって)起こされる恐れや憐れみという感情を表出することによって、己の感情の鬱積を排出することに伴う快感、あるいは感情の浄化です。コトバンクでの解説が正鵠を射ているので、こちらをご参照ください。

kotobank.jp

カタルシスについて、例えるならば、はしたないですが、排便というのがわかりやすいと思います。皆様もスッキリしたという感覚を覚えることはあるでしょう。

以下では、感傷マゾあるいは精神的リスカの快感=カタルシスであるという前提のもとに古典的な意味での悲劇について見た上で、感傷マゾあるいは精神的リスカの構造を見直したいと思います。

 

2. 悲劇について

私は、専門で悲劇について学んでいるわけではないので(ましてや、一応は法律学が専門なので)、以下の説明が不正確かもしれません。どうかご容赦ください。

古代ギリシャにおける悲劇についてはアリストテレスの『詩学』が説明を与えています。

まず、悲劇における主人公は優れた存在である必要があります。この意味は優れた選択ができるという意味です。

次に、主人公は悲劇的罪過(tragic flaw)を経て、結末に至ります。悲劇的罪過とは、主人公が明らかに倫理的または論理的に判断として間違った判断をしたがために、悲惨な結末に至るのではなく、むしろ、理知的な判断をしたが、悲惨な結末に至ってしまうという経過のことを指します。

そして、最終的には悲劇における主人公が不幸に至ることで、恐れやあわれみといった感情が現れ、カタルシス、すなわち感情の浄化という現象がおこるのです。

 

3.物語概念

悲劇性の感情マゾへの当てはめを行う前に、作品と我々を結びつけるものとして物語という概念について考えたいと思います。

作品と我々を結びつけるというのは、すなわち、感傷マゾや精神的リスカにおいて、「夏の畦道に、白いワンピースを着て、麦わら帽子を被り、こちらに向かって振り返ってくるような女の子は現実には存在しないのは明らかにわかる。だが、なぜか現実性を伴っているように思われる。」このような現象のことです。

では、物語概念とは何でしょうか。この概念は長く私の所属する大学のサークル内で論じられてきた概念であり、論者によって微妙にニュアンスのズレが生じる可能性があり、なおかつ、論者によって、様々な方向へと拡張されていった概念です。したがって、ここでは私の理解を述べるに留めるとします。

この概念では我々は、人生を生きているのではなく、物語を生きているのだと捉えます。私はボードリヤールの唱えるシュミラークルに引きつけて理解しています。シュミラークルについてご存知ない方は以下のリンクでの解説をご覧ください。端的な解説が述べられています。

kotobank.jp

現代社会では、事物において、もはや現実とコピーという対応関係が存在せず、全て最初からコピーとして存在しているということです。つまり、どういうことを申し上げたいかと言いますと、現実と虚構の垣根が曖昧化しているという意味にも読み替えられるのです。(これは、シュミラークルの一面を捉えているにすぎません。)上にあげた例をいえば、「夏の畦道に、白いワンピースを着て、麦わら帽子を被り、こちらに向かって振り返ってくるような女の子」は虚構とも現実とも言えない場所におかれ、同時に「私」という存在も虚構とも現実とも言えない場所に置かれるのです。そして、この虚構とも現実とも言えない場所こそが、シュミラークルであり、物語という概念なのです。(シュミラークルの一部に物語があると見る方が正確かもしれません。)

さらにもう一つだけ、物語概念における視座の一つを提示しておきたいと思います。議論の多く存するところではありますが、東浩紀さんの『動物化するポストモダン』内部で呈示されたデーターベース消費という概念です。この概念は、我々は物語を消費しているのではなく、物語を構成する要素である情報を消費しており、さらには、その情報の集積であるデーターベースを消費しているのだという概念です。もちろんこの概念は、批判の多いところでもあります。データーベースはどのように形成され、どのように共有されるのかというプロセスが不明瞭であったりします。

しかし、仮にこのようなデータベースがあるのであれば、説明がつく事象があります。それは、現象に対する既視感です。感傷マゾにおいてノスタルジーを感じる根底にあるものです。私たちは、現実に「夏の畦道に、白いワンピースを着て、麦わら帽子を被り、こちらに向かって振り返ってくるような女の子」を見たことがない。それでも、そのようなイメージを物語として認識できるのは、その女の子が私たちの間で、集積され共有されたデーターベースから引っ張られた情報の結合体であるからです。このようにして、私たちは見たことがないものについて既視感を得ることができるという風に考えられるのです。

 

4.悲劇の当てはめ

感傷マゾあるいは精神的リスカについて、いかなるプロセスを経て快感を得るのかについて、2.でお話しさせていただいて、悲劇の構造に当てはめつつ考えてみたいと思います。

感傷マゾの始点となるのは、おそらく対象物でしょう。例えば、「夏の畦道に、白いワンピースを着て、麦わら帽子を被り、こちらに向かって振り返ってくるような女の子」といったものです。我々の意識はまずこれらのものに向けられます。前回の記事でもお話しさせていただきましたが、この対象物というのは神聖化=理想化されます。したがって、少し意味のズレが起こる可能性はありますが、悲劇における主人公と対応します。

そして、私は思うに、対象物は物語の形をとるのだと思います。「概念の夏」というものを例にあげます。「概念の夏」それ自体はある夏の田舎の風景画に過ぎません。私は、この風景が直接対象物となるのではないのだと思います。すなわち、「概念の夏」は例えば、そこに「夏の畦道に、白いワンピースを着て、麦わら帽子を被り、こちらに向かって振り返ってくるような女の子」や「かつてどこかで見たような田んぼ」と言った様々な属性が風景に読み込まれることで、対象物になるのだと思います。ここでは、例えば、あの女の子はどういう子なのだろうか、といった情報がデータベースから引き出され、補完され、一つの物語として「概念の夏」が提示されるのだと思います。そうして、初めて、「概念の夏」は対象になるのではないでしょうか。

もちろん、私たちがデータベースからどのような情報を引き出すかは人によるでしょう。しかし、私たちが物語を情報の集積として消費する点は共通でしょう。この情報はデーターベースの属性の集積の中に属する情報群の中から引っ張られます。我々は、意識的にまたは無意識的にかはわかりませんが(文化的な背景は意識せずとも認識されるので、無意識もありうるでしょう。)、この属性については熟知しているように思われます。したがって、個々の情報については経験したことがなかったとしても、どこか既視感を覚える、どこかノスタルジーを感じるということが可能になるのです。(これは、3.の最後にお話ししたことを敷衍したものです。)そして、このノスタルジーこそが、次にお話しする自身の経験を投影しようとする動機になるのではないでしょうか。

次に悲劇的罪過ですが、これは私たち自身の経験が当てはまると私は考えます。私たちは決して、あえて、道を違えるために今から見れば愚かであったような選択をしたのではありません。場合によっては、本当にどうしようもなかった選択なのかもしれません。またあるいは、良かれと思ってした選択なのかもしれません。ですが、いずれにせよ、その経過を経て成り立つ私というのは、どうしようもない存在であるという事実は揺るがないのです。すなわち、自身の経験=悲劇的罪過を回想した上で、最終的には自身という悲惨な結果に意識が及ぶのです。いわゆる、罵りの川をここでわたるわけです。

ただ注意しなければいけない点は、罵りとは理想から悲劇的罪過を経由して、「私」に至り、そのギャップを認識することであるということで、ここでは目的物に罵りを代弁してもらうことは必ずしも必要ではないというわけです。例をあげましょう。「夏の畦道に、白いワンピースを着て、麦わら帽子を被り、こちらに向かって振り返ってくるような女の子」に罵られるというのは明確に罵りの川を越えているでしょう。しかし、必ずしも、この女の子にその罵りを代弁してもらう必要はないのです。「概念の夏」に向かい合った上で、自身の夏は何もなかったという意識に至れば、罵りの川を越えうるのです。そこから色々なここでは、今、理想化された経験を実現できるかは問題にはなりません。「かつて」できなかったことは取り返しのつかないことであり、「かつて」と「今」は等価ではなく、「かつて」できなかったことはそれ自身、固有の問題であるからです。

以上のように、古典的な悲劇の展開と感傷マゾにおける精神プロセスというのはかなりの程度一致していると思われます。異なっているのは、悲劇においては、主体は主人公だけであるのに対し、感傷マゾにおいては対象物と私の二つであるということでしょう。しかし、これは捨象される問題ではないかと思います。第一に、意識(感情)の動きについては、上述の通り、悲劇と感傷マゾにおいて一致しております。そして、カタルシスはあくまでも感情に起因するものですので、意識が一致していれば他のものは捨象されうると思うのです。第二に、要検証ではあると思うのですが、感傷マゾにおいては私という物語と対象物の物語の二つが合わさり、混じり合い、第3の物語が形成されて、同一の物語内に置かれる可能性があるからです。同一の次元に置かれている以上、上記の差異は発生しないでしょう。

そうした、プロセスを経てカタルシスという現象=感情の浄化という快感を得るのだと私は考えます。

 

5.結び

まずは、ここまでお読みいただきありがとうございます。

本稿では、悲劇というものに感傷マゾを重ねることで、感傷マゾから得られる快感を説明するとともに、感傷マゾの対象物から快感に至るまでの心的動向について説明を与える試みをしました。

正直、私自身がこれがどこまで正しいのかわかりかねるところではあります。そもそも、本記事を書くきっかけになったのは、「そういえば、悲劇から得られる快感と感傷マゾから得られる快感ってかなり似ているなぁー。」とふと思ったところからでして、私自身、悲劇におけるカタルシスをある程度理解または体感できておりますが、どれほど皆様が私と同じようにカタルシスを体感していらっしゃるのか不安なところであります。したがって、本稿についてどれほど納得していただけるか、かなり不安なところではあります。ただ、本稿が少しでも、皆様にとって、感傷マゾというものを理解するきっかけになり、皆様の感傷マゾの世界を拡げるものであればいいなという風に思います。

 

P.S.

今回は演劇について少し触れた形になりましたので、それについて少しだけ、お話しします。つい、先日、『アクタージュ』の既刊分を読み終わりまして、実に引き込まれました。特に、第5巻、第6巻の演劇の場面を読んでいる際には、現実の私の周りの音が全て消え去り、文字で書かれた音が現実に聞こえてくるように思われました。とても良い、没入感を得られたのです。

実は、このような経験は初めてではなくて、私が初めて、このような没入感を感じたのは、高校の時に受けた模試の現代文の出題文を読んだ時です。その出題文は恩田陸先生の『チョコレートコスモス』でした。これもまた、演劇の話で、実際に主人公が演技をしている場面は、『アクタージュ』と同様の没入感を得られたのです。

こういった経験があるからこそ、私には、つくづく演劇というものは面白いなと思われるのです。

そして、上述の通り、私にとって感傷マゾで得られる快感と悲劇から得られる快感というのは似ているように思われます。上述の内容に理解を示していただけるのであれば、2つ、私の好きな悲劇作品をあげておきますので、是非本で読むなり、実際に劇場に足を運んでいただければ、面白いかもしれません。

1つ目は、ジョン・スタインベック(John Steinbeck)の"Of Mice and Men"(邦題:二十日鼠と人間)です。この著者は他にも、有名なものとしては『怒りの葡萄』などが有名ですが、私はこの作品が一番好きです。このお話は、いわゆるアメリカン・ドリームのお話です。二人の男が夢の実現を夢想し、現実味を増す一方で、悲劇的な結末を迎える。というお話です。詳しい内容については是非、原作をお読みになってください。

2つ目は、アーサー・ミラー(Authur Miller)の"The Death of a Salesman"(邦題:セールスマンの死)です。この著者は現代悲劇作家であり、実は私も彼の傑作に位置付けられるこの作品以外の作品は読んだことがないので、他の作品についてはお話しできません。この作品の中で、彼は古代ギリシア的悲劇から離れて、現代における悲劇を描こうとします。その意味内容については、彼の書いているこちらの"Tragedy and the Common Man"というessayを読んでいただくのがわかりやすいと思います。

http://mr-shannon.com/wp-content/uploads/2015/05/tragedymillerandaristotle.pdf

具体的なストーリーラインについては是非、演劇をみるなり(確か今は公演はありませんが。)、原作を読むなりしていただければと思います。

 

長文失礼しました。改めて、ここまで読んでいただいた皆様に感謝したいと思います。

 

それでは、皆様、失礼します。